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234年

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soutoku

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234年

青龍二年 (魏)


皇帝

曹叡(魏)

皇后

毛氏(明悼毛皇后・河內人)


三公

太傅:(空位)

太尉:(空位)
司徒:董昭(前衛尉)
司空:陳群(前鎮軍大將軍)



九卿

衛尉:


その他の要職

大司馬:公孫淵(樂浪公・前車騎將軍)
大将軍:司馬懿(前驃騎將軍)
驃騎大將軍:→
車騎將軍:→

地方官




主な事件

  • 青龍二年春二月乙未、太白が熒惑を犯す《三国志魏書明帝紀》
  • 二月癸酉(2月18日)、詔して「官刑に鞭打ちがあるのは慢怠を糾弾するためのものだが、無辜の死罪が多い。鞭杖之制を減らすように」《三国志魏書明帝紀》
  • 三月庚寅(3月6日)、山陽公(漢献帝)が薨じた。帝は素服で發哀した。使者に節を持たせ喪事を典護する。《三国志魏書明帝紀》
  • 三月己酉、大赦《三国志魏書明帝紀》
  • 夏四月、大疫。崇華殿が火災《三国志魏書明帝紀》
  • 四月丙寅、有司に詔して太牢をもって文帝廟に告祠させ、山陽公を漢孝獻皇帝と追諡する。葬礼は漢の礼制であった。<葬礼の模様>《三国志魏書明帝紀》
  • 是月、諸葛亮は斜谷に出て渭南に屯す。司馬懿は諸軍を率いて之を拒む。司馬懿に詔して「ただ堅く拒守しその矛先を挫け。必ず敗走するだろう。敗走すれば之を追え。これが全勝之道だ」《三国志魏書明帝紀》諸葛亮は使者に書を持たせ遣わし、また巾幗婦人之飾を送る。司馬懿は怒り出て戦わんとするが、辛毗が節を杖つき詔を奉じる。司馬懿及び軍吏以下に勅し止む。司馬懿は使者に会い、ただ寝食及び煩簡な事柄のみ問い、戦いのことは問わず。対して使者は「諸葛公は夜寝静まってから寝、罰は二十以上を皆親しく覽ます。食は數升を過ぎず」と。司馬懿は「亮の体は斃れるだろう。そう長くはあるまい?」《三国志魏書明帝紀に引く魏氏春秋》
  • 五月、太白が昼に見えた。孫權が居巢湖の口に入り、合肥新城に向かう。又將の陸議﹑孫韶に各々萬餘人を率いさせて淮水﹑沔水に入らせた《三国志魏書明帝紀》
  • 六月、征東將軍の滿寵は軍を進めて拒んだ。滿寵は新城の守りを解いて賊を壽春に引き込まんと欲す。帝は聽かず。曰わく「先帝は東に合肥を置き、南は襄陽を守り、西は祁山を固め、賊が來たれば三城之下に破る。地には必爭の地がある。孫権が新城を攻めても必ず敗れるだろう。諸將は堅守せよ。自ら之を征伐せん。至れば孫権は敗走するだろう」と。《三国志魏書明帝紀》
  • 秋七月壬寅、帝は親しく御龍舟に乗って東征した。孫権は新城を攻めるも、將軍の張穎等が力戰固守し、帝の軍が未だ數百里に至る前に遁走した。議﹑韶等もまた退く。大將軍が諸葛亮と相対峙しているので車駕は西の長安へ向かうべきと進言があったが、帝は「孫権が敗走した今、諸葛亮も破られるだろう。大將軍が制している。何を憂うことがあろうか」。壽春に進軍し諸將の功を録し、格差をもって封賞する《三国志魏書明帝紀》
  • 八月己未、大いに兵を休め、六軍を饗応し使者に節を持たせて合肥・壽春諸軍の労を労わる。《三国志魏書明帝紀》
  • 八月辛巳、許昌宮に還る《三国志魏書明帝紀》
  • 司馬懿は諸葛亮と対峙し続け、何度も挑戰されたが応じず。諸葛亮が死んだので其軍は引き退いた《三国志魏書明帝紀》
  • 冬十月乙丑、月が鎮星及び軒轅を犯す《三国志魏書明帝紀》
  • 十月戊寅、月が太白を犯す《三国志魏書明帝紀》
  • 十一月、京都で地震。東南から来て隱隱と音あり、屋瓦を揺り動かす《三国志魏書明帝紀》
  • 十二月、有司に詔して大辟を刪定する,死罪を減じる《三国志魏書明帝紀》


誕生者



死没者

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