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184年

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soutoku

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184年

光和七年→中平元年(漢)


皇帝

劉宏(漢霊帝)

皇后

何氏(諱某・南陽宛県)

皇太子

(空位)


三公

太尉:楊賜(前太常・182~184)→鄧盛(前太僕・184~185)
司徒:袁隗(前太常・182~185)
司空:張済(前太常・179~184)→張温(前大司農・184~185)

その他の要職

太常:?
光禄勳:?
衛尉:?
太僕:→鄧盛→
廷尉:?
大鴻臚:?
宗正:?
大司農:張温→
少府:?



大将軍:何進(前河南尹・慎侯)
驃騎将軍:
左車騎将軍:皇甫嵩
衛将軍:

地方官

河南尹:何進→徐灌→(獄死)
豫州刺史:王允
幽州刺史:郭動→(死亡)


主な事件

  • 中平元年春二月、鉅鹿の人張角は「黄天」と自称し、その部三十六萬、皆黄色い布をし、同日に叛く。安平国、甘陵国の人々はその王を殺し之に応じた。注に引く安平王は劉続、甘陵王は劉忠《後漢書孝霊帝紀》黃巾賊の張角等が起つと何進を大將軍と為し、左右羽林五營士を率いて都亭に屯す。器械を修理し、以て京師を鎮める。張角の別党馬元義は洛陽で謀かり、何進は其姦を排した。その功により慎侯に封じられた《後漢書竇何列伝》
  • 三月戊申、河南尹何進を大将軍と為し、将兵を都亭に駐屯させる。注に引く都亭とは洛陽に在った。八関の都尉の官を置く。注に引く八関とは函谷、広城、伊闕、大谷、ケンエン、旋門、小平津、孟津《後漢書孝霊帝紀》
  • 壬子 天下に大赦し、党人を還す。注に引く時の中常侍呂彊は帝に党錮以来久しく若し黄巾と合わさって謀略があれば悔いても救いはありませんと進言し、皇帝は畏れ皆赦した。唯張角は許さず。詔して公卿に馬や弩を出させ、列将の子孫及び吏民で戦陣の謀略に明るい者を挙げさせ、公車で召した。北中郎将の盧植を張角を討たしめ、左中郎将の皇甫嵩、右中郎将の朱儁を潁川郡の黄巾を討たしめた《後漢書孝霊帝紀》董卓は東中郎將を拝し、持節、盧植に代わって張角を下曲陽に撃ち、軍は敗れ罪に抵触した《後漢書董卓列伝》
  • 庚子 南陽の黄巾張曼成は郡守の楮*貢を攻め殺す《後漢書孝霊帝紀》
  • 夏四月 太尉の楊賜が免ぜられ、太僕で弘農郡の鄧盛を太尉と為す。司空の張済が罷め、大司農の張温を司空と為す《後漢書孝霊帝紀》
  • 朱儁は黄巾の波才を敗る《後漢書孝霊帝紀》
  • 侍中の向挧、張鈞は宦官の言に坐し獄に下され死ぬ。注に引く、時に張鈞は今こそ常侍を斬り、その首を南郊に懸けて天下に謝し、さすれば兵は止むでしょうと上書した。しかし帝は常侍に明らかにし、故に獄に下された《後漢書孝霊帝紀》
  • 汝南黄巾は太守の趙謙を邵陵県で敗る。広陵黄巾は幽州刺史の郭動及び太守の劉衛を殺す《後漢書孝霊帝紀》
  • 五月 皇甫嵩と朱儁はまた波才らと長社において戦い、大いに之を敗る《後漢書孝霊帝紀》
  • 六月 南陽太守の秦頡は張曼成を撃ち、之を斬る《後漢書孝霊帝紀》
  • 交阯の屯兵が刺史及び合浦太守来達を殺し、柱天将軍と自称する。交阯の刺史賈[王宗]を遣わし之を平定する《後漢書孝霊帝紀》
  • 皇甫嵩と朱儁は汝南黄巾を西華県において大いに破る。注に引く西華県は汝南に属す。詔して皇甫嵩は東郡を、朱儁には南陽を討たした。盧植は黄巾を破り、張角を広宗に囲む。宦官が盧植を誣奏し、盧植は罪に抵触した。中郎将の董卓を遣わして張角を攻めたが勝てず。注に引く、盧植は張角に連勝しまさに之を抜く勢いだったが、小黄門の左豊は帝に「盧中郎は堅く守って天誅を待っている」と奏上され、帝は激怒し、死一等を減じ、遂に監車を寄越した。《後漢書孝霊帝紀》
  • 洛陽の女の子が子を生む。両頭共身。《後漢書孝霊帝紀》
  • 秋七月 巴郡の妖巫である張脩が叛き、郡県を冦略する(注に引く劉乂*紀によれば、時の巴郡の巫子張脩は病を治療し、治った者には米五斗を納めさせた。号して五斗米師と)《後漢書孝霊帝紀》
  • 河南尹の徐灌が獄に下され死ぬ《後漢書孝霊帝紀》
  • 八月 皇甫嵩は黄巾と倉亭において戦い、その帥を捕らえる(注に引くその帥は卜巳という。倉亭は宋代の東郡に在る)《後漢書孝霊帝紀》
  • 乙巳 皇甫嵩に詔して張角を討たす《後漢書孝霊帝紀》
  • 九月 安平王劉続は罪有りて誅され国は除かれる《後漢書孝霊帝紀》
  • 冬十月 皇甫嵩は黄巾賊を広宗において戦い、張角の弟の張梁を捕らえる。張角は先に死んでいた。その屍を戮す(注に引く棺を開けて首を落とす。馬市に送った)。皇甫嵩を以って左車騎将軍と為す。《後漢書孝霊帝紀》
  • 十一月 皇甫嵩は黄巾を下曲陽において破り、張角の弟張宝を斬る《後漢書孝霊帝紀》
  • 湟中の義従北宮伯玉は先零羌を挙げて叛き、金城郡の辺章、韓遂を軍師と為す。護羌校尉の伶徴、金城太守の陳懿を攻め殺す《後漢書孝霊帝紀》冬、北地の先零羌及枹罕河間の賊が反乱略奪を働く、湟中義從胡の北宮伯玉を共立し、李文侯を將軍と為し、護羌校尉泠徵を殺す。伯玉等は金城人邊章、韓遂に軍政を専任し、金城太守陳懿を共に殺し州郡を攻め焼く《後漢書董卓列伝》
  • 癸巳 朱儁は宛城を抜き黄巾の別帥孫夏を斬る《後漢書孝霊帝紀》
  • 詔して大きな官職にあるものは珍奇な食物は減らし肉は一種とするよう、厩舎にある馬は祭礼用のものを除き悉く軍に拠出するように《後漢書孝霊帝紀》
  • 十二月己巳 天下に大赦を下し、中平に改元する《後漢書孝霊帝紀》
  • この年、下邳愍王劉意は黃巾の難にあって国を追われ、国を復して数ヶ月で亡くなった。在位57年。年は90歳。子の哀王宜が継ぐが数ヶ月で亡くなり、子は無く、建安11年に国は除かれた。《後漢書孝霊帝紀》《後漢書孝明八王列伝下[丕β]惠王衍》
  • この年、郡国で異様な草が生え、龍や蛇、鳥獣の形をしていた《後漢書孝霊帝紀》



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