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反董卓連合

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soutoku

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董卓上洛前夜


  • 鄭太字公業(河南開封の人)は、三府が辟し,公車徵も断ったが、大將軍何進が輔政した時出仕し、尚書侍郎から侍御史となった。何進むが并州牧董卓を召して宦官を誅滅せんとした時、「董卓は強忍寡義で、大事を任せれば凶慾を恣にし、朝廷は必ず危うくなるでしょう。明公は親德之重、阿衡之權、罪があれば誅して除き、董卓に頼る必要はありません」と諌めた。が何進は用いなかった。官を去り、潁川人荀攸に「何公は輔けにくい」と。《後漢書鄭孔荀列伝鄭太》


董卓政権成立前後

  • これより以前、何進は騎都尉で太山の鮑信を遣わして兵を募らせていたが、鮑信が命を守って戻ったときすでに何進は敗れていた。鮑信は袁紹に「董卓は彊兵を擁しながら異志を抱いています。今早く対処しなければ制されるでしょう。疲勞している今こそ襲って禽にする機会です」と勧めた。しかし袁紹は卓を恐れ、動けなかった。鮑信は鄉里に還った。《三国志魏書董卓伝》
  • 鄭公業等は侍中伍瓊、董卓の長史何顒と共に董卓を説いて、袁紹を勃海太守と為す。山東で義兵が起こると、董卓は公卿に議し、大いに兵を発し之を討たんと欲す。皆敢えて何も言うものがない中、鄭公業は独り「政治は徳に有り。兵に無い」と言う。董卓は喜ばず「それでは兵は不要なのか?」と。鄭公業は之を説いて自らが武威を示すとした。董卓は悅び,鄭公業を將軍と為し、諸軍を統べさせ山東を討たんとしたが、或るものが諌めたために兵を收還し、議郎に留める《後漢書鄭孔荀列伝鄭太》

  • 初め、董卓は尚書の周毖(字仲遠、武威人)、城門校尉の伍瓊(字德瑜、汝南人)#1等を信任し彼等が推挙した韓馥、劉岱、孔伷、張咨、張邈等を用いて州郡を治めさせた。しかし馥等は官につくや皆兵を合せて董卓討伐に兵を挙げた。董卓は之を聞いて毖、瓊等が情を通じ己を売ったと思って皆斬った。《三国志魏書董卓伝》


董卓政権

  • 是時洛中貴戚室第相望,金帛財產,家家殷積.卓縱放兵士,突其廬舍,淫略婦女,剽虜資物,謂之「搜牢」(言牢固者皆搜索取之也.一曰牢,漉也.二字皆從去聲,今俗有此言)。人情崩恐,不保朝夕.及何后葬,文陵(靈帝陵)を開く。中に収蔵していた珍物を悉く奪い去る。又姦亂公主,妻略宮人,虐刑濫罰,睚必死,僚內外莫能自固.卓嘗遣軍至陽城,時人會於社下,悉令就斬之,駕其車重,載其婦女,以頭繫車轅,歌呼而還.又壞五銖錢,更鑄小錢,悉取洛陽及長安銅人、鍾虡、飛廉、銅馬之屬,以充鑄焉.[三]故貨賤物貴,穀石數萬.又錢無輪郭文章,不便人用(魏志曰:「卓鑄小錢,大五分,無文章,肉好無輪郭,不磨鑢)時人以為秦始皇見長人於臨洮,乃鑄銅人.[五]卓,臨洮人也,而今毀之.雖成毀不同,凶暴相類焉。卓素聞天下同疾閹官誅殺忠良,及其在事,雖行無道,而猶忍性矯情,擢用士.乃任吏部尚書で漢陽の周珌(字仲遠)、侍中で汝南の伍瓊(字德瑜)、尚書の鄭泰(字公業)、長史何顒等を任命した。以處士荀爽為司空.其染黨錮者陳紀、韓融之徒,皆為列卿.幽滯之士,多所顯拔.以尚書韓馥為冀州刺史,[三]侍中の劉岱を兗州刺史に、陳留の孔を豫州刺史に、潁川の張咨を南陽太守と為す。[六]卓所親愛,並不處顯職,但將校而已《後漢書董卓伝》


董卓暗殺計画

  • 董卓が長安に遷都し、天下は飢え乱れた。鄭公業は余財を以て多くを救う。何顒、荀攸とともに董卓を殺そうと謀り、事は洩れ、顒等は捕縛されたが鄭公業は脱出し武關から出て袁術に身を寄せた。袁術は楊州刺史に上表したが官に就く前に道にて卒す。年四十一。《後漢書鄭孔荀列伝鄭太》
  • 伍孚#1字德瑜は大將軍の何進に辟され東曹屬となり、ややあって侍中、河南尹、越騎校尉となる。董卓の騒乱で百僚が震慄する中、小鎧を付け、朝服の裏に佩刀を隠して董卓に会い、刺殺せんと欲す。言葉を交わして辭去し、董卓が閤中に送った時、孚は刀を出して刺す。しかし董卓は力があり、咄嗟に退いて当たらず。孚は捕らえられた。董卓は「卿はなぜ叛くか?」と言ったが、孚は大言して「汝は吾の君ではなく、吾は汝の臣にあらず。どうして叛くということがある? 汝は國を乱した篡主で罪は大きい。今まさに吾が死ぬ日でただ姦賊を誅殺するのだ。汝を市で車裂きにして天下に謝罪することが出来ないのが恨めしい」孚は殺された。《三国志魏書董卓伝に引く謝承後漢書》


反董卓連合

  • 初平元年春正月、後將軍袁術、冀州牧韓馥(字文節・潁川人)、豫州刺史孔伷(字公緒・陳留人)﹑兗州刺史劉岱(劉繇の兄)、河內太守王匡(字公節・泰山人)、勃海太守袁紹﹑陳留太守張邈﹑東郡太守橋瑁(字元偉・橋玄の族子・先の兗州刺史)﹑山陽太守袁遺(字伯業・袁紹の從兄・元長安令)﹑濟北相鮑信は、同時に兵を起こし、各數萬、袁紹を盟主に推し、曹操は行奮武將軍《三国志魏書武帝紀操》
  • 曹操陣営:夏侯惇を司馬と為し、別れて白馬に屯す《三国志魏書諸夏侯曹傳》
  • 曹操は兵を進めない諸軍をおいて遂に単独で兵を西に移し成皋を取らんとする。張邈は將の衛茲を遣わして兵を分けて曹操に随行させる。滎陽の汴水に至って董卓の將の徐榮と遭遇する。戰は不利で士卒の死傷は甚だ多かった。曹操も流矢にあたって乘馬も傷を負う。從弟の曹洪は馬を曹操に譲り夜をついで遁去する。榮見太祖所將兵少,力戰盡日,謂酸棗未易攻也,亦引兵還.《三国志魏書武帝紀操》
  • 冀州牧の韓馥は字を文節といい、潁川の人である。御史中丞となる。董卓が推挙して冀州牧と為す。韓馥は袁紹が勃海郡にあって兵を挙げるのではないかと恐れ、数人の從事を遣わして監察させた。東郡太守の橋瑁は詐わって京師の三公の文書を作って州郡に回し、董卓の罪惡を伝えさせた。韓馥は書を得て諸從事に問うた「今袁氏を助けるべきか?董卓をたすけるべきか?」と。治中從事の劉子惠は「今兵を起こすのは國のためであってどうして袁か董かというのですか!」韓馥は書を袁紹に送って董卓の悪事を知らせ舉兵を許した。《三国志魏書武帝紀操に引く英雄記》



*#1伍孚字德瑜。謝承が記した孚の字と本郡が瓊と同じだが、同一人物かどうかは分からない《三国志魏書董卓伝に引く謝承後漢書》とされる。死に方に違いがあるが、あるいは、殺されることを感じ取った伍孚は董卓暗殺を計画したのかもしれない。
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