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263年

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soutoku

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263年

景元四年(魏)


皇帝

曹奐(字景明・魏常道鄉公)

皇后

(空位)→卞氏

皇太子



三公(魏)

晋公:→司馬昭(相国)

相国:→司馬昭(晋公)
太傅:司馬孚(前太尉)
太保:→鄭沖(前司徒)

太尉:高柔(前司徒) →(死亡) →鄧艾(前征西將軍)
司徒:鄭沖(前司空) →鍾会(前鎮西将軍)
司空:王祥(前司隸校尉)


その他の要職(魏)

錄尚書事:司馬昭(大将軍)→
太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→

大将軍:司馬昭(大都督を加号)→
驃騎将軍:王昶
車騎将軍:孫壹
衛将軍:?


地方官

司隸校尉:
冀州牧:
幽州牧:
并州牧:
青州牧:
徐州牧:
兌*州牧:
揚州刺史:?
雍州刺史:諸葛緒
交州牧:孫壹?
梁州:


主な事件

  • 四年春二月、また大將軍に爵位を進め九賜を具えるように命じた。前の詔と同様であった。しかしまた固辭して沙汰止みとなった《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 夏五月、詔に曰わく「蜀は小國で土地は狹く民は寡ない。しかし姜維は虐げてそれらを酷使し、止める気もない。先年破れた後、なお沓中に留まって耕作している。羌族を勞役し民は命を全うできない。人を致して人に致されずが兵家の上略だ。蜀が恃れ賴るのは唯姜維だけである。今、征西將軍の鄧艾に諸軍を督帥させ、甘松に赴き沓中で姜維と交戦せよ。雍州刺史の諸葛緒は諸軍を督して武都に赴き、高く樓を築き、首尾応じて討て。もし姜維を捕らえたならば、東西より並進して巴蜀を掃滅せよ」また鎮西將軍の鍾會に命じて駱谷経由で蜀を討たせた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》秋、蜀征討の詔勅が下った《三国志魏書鄧艾伝》
  • 秋九月、太尉の高柔が薨ず《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 冬十月甲寅、また大將軍に位爵を進め九賜を具えるよう命じた。前の詔と同様であった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十月癸卯、皇后に卞氏を立てる《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十一月、大赦《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十一月、鄧艾、鍾會が率いる軍は蜀を征討し至る所で勝利する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十一月、蜀主の劉禪が艾に降る。巴蜀は皆平定される。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十一月、魏帝は晉公の司馬昭に命じて相國と為し百揆を総攬させる。侍中、大都督、錄尚書は返した。《晋書帝紀太祖文帝昭》
  • 十二月庚戌、司徒の鄭沖を太保と為す。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十二月壬子、益州を分けて梁州を置く。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十二月癸丑、特に益州の士民を赦し、また五年間租賦之半分を免除する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》

  • 十二月乙卯、征西將軍の鄧艾を太尉に、鎮西將軍の鍾會を司徒と為す。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》十二月、蜀征討の功績から詔勅によって鎮西将軍鍾会を司徒に任じ、県侯として領邑一万戸を加増した。二人の子を亭侯に取り立て領邑千戸を与えた。《三国志魏書鍾会伝》
  • 皇太后が崩御する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》十一月、明元郭皇后が崩御した《三国志魏書鍾会伝》






誕生者




死没者

諸葛瞻(蜀の丞相諸葛亮の子)
鍾イク(鍾会の兄・病死)
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