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194年

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soutoku

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194年

興平元年(漢)

皇帝

劉協(漢献帝)

皇后

(空位)

皇太子

(空位)


三公

太傅:馬日磾(前太尉・録尚書事・192~194)→(死亡)→(空席)


太尉:朱儁(前太僕・193~194)→楊彪(前太常・194~196)
司徒:淳于嘉(前司空・192~194)→趙温(前衛尉・194~208)
司空:張喜(前衛尉・193~196)

その他の要職

録尚書事:
■馬日磾(太傅・192~194)→(死亡)→?
■朱儁(太尉・193~194)→楊彪(太尉・194~196)
■趙温(司徒・194~?)


太常:楊彪→
光禄勳:→
衛尉:趙温→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→


大将軍:
驃騎将軍:
車騎将軍:
衛将軍:


地方官

司隷校尉:?
冀州牧:袁紹(191~202)
幽州牧:?
并州牧:?
青州:?
豫州刺史:郭貢《後漢書鄭孔荀列伝荀彧》
兗州牧:曹操(前東郡太守)
徐州牧:陶謙(~194)→(死亡)→劉備(194~)
河南尹:駱業《後漢書皇后紀靈思何皇后》
荊州牧:劉表(192~208)
涼州:?
揚州:?
益州:?
交州:?
廱州:?


主な事件

  • 興平元年春正月辛酉、天下に大赦する《後漢書孝献帝紀》
  • 興平に改元する《後漢書孝献帝紀》
  • 帝元服する《後漢書孝献帝紀》有司は長秋宮を立てるべきと奏上する。《後漢書皇后紀靈思何皇后》
  • 興平元年春、曹操は徐州から帰還する。初め。曹操の父の曹嵩は退官後譙に帰っていたが董卓の亂を避けて瑯邪に避難していた。陶謙のために害され、故に曹操は復讎の志をもって東伐に向かっていた。《三国志魏書武帝紀操》曹嵩は泰山の華縣にあった。曹操は泰山太守の應劭に迎えて兗州に送り届けるよう命じた。応劭の兵がいまだ至る前に、陶謙は密かに數千騎を遣わして掩捕せんとした。曹嵩は応劭を待っていて備えを設けていなかった。陶謙の兵が至たり、曹操の弟の曹德を門の中で殺す。曹嵩は懼れて後ろの垣を穿ち、先に妾を出そうとしたが妾が肥えていて出られなかった。曹嵩は廁に逃げたが妾とともに害された。闔門は皆死んだ。応劭は懼れて官を棄てて袁紹のもとに行った。後に曹操が冀州を平定した時、応劭はすでに死んでいた。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》曹操は曹嵩を迎えた。輜重は百餘兩だった。陶謙は都尉の張闓に騎二百を率いさせて遣わし送った。張闓は泰山の華において嵩を殺し財物を奪い、淮南に出奔した。曹操は咎を陶謙に帰し征伐する。《三国志魏書武帝紀操に引く韋曜吳書》
  • 二月壬午、皇妣の王氏を霊懐皇后と諡し追尊する。甲申、文昭陵に改葬する。《後漢書孝献帝紀》有司は追尊して王美人を靈懷皇后とするよう奏上した。文昭陵に改葬し、儀礼は敬・恭の二陵に比し、光禄大夫に節を持たせ行司空事が璽綬を奉った。王美人の兄の王斌と河南尹の駱業が復土した。《後漢書皇后紀靈思何皇后》
  • 丁亥、帝は藉田を耕す《後漢書孝献帝紀》
  • 三月、韓遂、馬騰は郭汜、樊稠と長平観で戦い、敗れる。左中郎将の劉範、前の益州刺史[ネ中]劭は戦没《後漢書孝献帝紀》
    注に引く、前書音義に、長平は阪の名前にて、池陽宮にある。長安とは約50里の距離がある。
    また注に引く、袁宏紀によれば、このとき馬騰は李確*等が専乱を行っているとして、宗室の大臣である劉焉に使者を遣わした。劉焉は子の劉範に将兵を授けて馬騰に就かす。故涼州刺史の[ネ中]劭は太常の[ネ中]弗の子で、[ネ中]弗は李確*に害されたので仇に報いんと参加した。《後漢書孝献帝紀》
  • 夏六月丙子、涼州の黄河以西四郡(金城郡・酒泉郡・敦煌郡・張掖郡)を分けて廱州を作る《後漢書孝献帝紀》
  • 丁丑、地震《後漢書孝献帝紀》
  • 戊寅、また地震《後漢書孝献帝紀》
  • 乙巳晦、日食あり。皇帝は正殿を避け、聴事を五日間行わなかった《後漢書孝献帝紀》
  • 大いに蝗《後漢書孝献帝紀》
  • 夏、曹操は荀彧、程昱を遣わして鄄城を守る。再び陶謙を討つ。五城を抜き、遂に東海に至る。郯を過ぎて還るとき陶謙の將の曹豹と劉備が郯の東に駐屯しているのを撃ち破る。遂に襄賁を攻拔する。通過したところの多くで殘戮する。《三国志魏書武帝紀操》
  • 張邈は陳宮とともに呂布を迎えて曹操に叛いた。兗州の郡縣は皆応じた。荀彧、程昱は鄄城を保ち、范、東阿の二縣も固守した。曹操は軍を引き返した。呂布は鄄城を攻めたが落せず西進して濮陽に駐屯した。曹操は進軍して攻めた。呂布も兵を出して戰う。先陣の騎兵が青州兵を撹乱し青州兵は逃走した。曹操の陣は亂れた。曹操は馳突で火が出て馬を落ち左手掌を火傷した。司馬の樓異が曹操を助けて馬に乗せ退去した。軍営に曹操が戻ってこないので諸將は浮き足立ったが、曹操は軍を労り、軍中に令して攻める用意を整え、進軍して再び攻撃した。呂布と対峙すること百餘日。蝗蟲が起こり百姓は大いに飢え、呂布の糧食もまた乏しく各々引去する。《三国志魏書武帝紀操》曹操が濮陽を囲んだ時、濮陽の大姓である田氏が寝返ると聞いて、曹操は城内に入ることが出来た。しかし東門が焼かれ、寝返りが嘘だということがわかり、軍は敗れた。呂布の騎兵が曹操と遭遇したがそれが曹操だと分からず、「曹操はどこか?」と聞いた。曹操は「黃馬に乗っているあのものです」と答え難を逃れた。門の火は勢い盛んで曹操は火を突いて脱出した《三国志魏書武帝紀操に引く袁暐獻帝春秋》太祖は陶謙を征伐した際、領東郡太守の惇を留めて濮陽を守らせる。張邈は呂布を迎えてて叛き、太祖の家族は鄄城にあったので惇は輕軍をもって往赴する。途中呂布と遭遇し交戰する。呂布は退き、濮陽に入る。襲得惇軍輜重.遣將偽降,共執持惇,責以寶貨,惇軍中震恐.惇將韓浩乃勒兵屯惇營門,召軍吏諸將,皆案甲當部不得動,諸營乃定.遂詣惇所《三国志魏書諸夏侯曹傳》
  • 秋七月壬子、太尉朱儁が免じられる《後漢書孝献帝紀》
  • 戊午、太常の楊彪を太尉・録尚書事と為す《後漢書孝献帝紀》
  • 四月から七月に至るまで三輔では大旱魃《後漢書孝献帝紀》
  • 皇帝は正殿を避けて雨乞いをし、使者を囚徒に遣わして蕩滌させ、刑を軽くした《後漢書孝献帝紀》、
  • このとき穀1斛50万、豆麦1斛20万銭と為り、人相食み白骨は積もるに任された。皇帝は侍御史の侯汶を遣わして、太倉の米豆を出させ、飢えた人に粥を作った。日を経ても死者が減らなかった。皇帝は疑って、親しく御座前で粥作りを試みさせ、真実を悟った。これによって尚書令以下省閣に出て謝し、侯汶を捕らえて考査を奏した。詔に曰く、「侯汶を裁くに忍びず、杖打ち50とすべし」と。これ以後全てに徹底され得るもの多かった。
    袁宏紀によれば、侍中の劉艾は米豆5升で粥を作って盂3杯を満たして見せた。これを尚書に詔して曰く「米豆5升、粥盂3杯を作れる。」《後漢書孝献帝紀》
  • 八月、馮[立羽]羌が反乱し属県を寇ず。郭[シ巳]、樊稠がこれを撃破する《後漢書孝献帝紀》
  • 九月、桑がまた桑の実を生み、人は食べるを得る《後漢書孝献帝紀》
  • 秋九月、曹操は鄄城に還る。呂布は乘氏に至り、そこの縣人である李進に破られ、東に行って山陽に駐屯する。ここにおいて袁紹は人を遣わして太祖に連和したいと説得させた。曹操は新たに兗州を失い、軍食も乏しく、許可しようとしたが、程昱が諌止し、曹操もそれに従った。《三国志魏書武帝紀操》
  • 司徒の淳于嘉が罷める《後漢書孝献帝紀》
  • 冬十月、長安の市門が自壊する《後漢書孝献帝紀》
  • 冬十月、曹操は東阿に至る《三国志魏書武帝紀操》
  • 衛尉の趙温を以って司徒・録尚書事と為す。《後漢書孝献帝紀》
  • 十二月、安定郡・扶風郡を分けて新平郡を置く。《後漢書孝献帝紀》

  • この歳、楊州刺史劉ヨウは袁術の将孫策と曲阿に於いて戦い、敗れる。孫策は遂に江東に拠る。太傅の馬日磾は寿春に於いて薨る。
  • 是歲、陶謙が死に、劉備が之に代わった《三国志魏書武帝紀操》



誕生者




死没者

劉範(左中郎将)
[ネ中]劭(前の益州刺史)
馬日磾(太傅)
陶謙:徐州牧



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