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265年

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soutoku

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265年

咸煕二年(魏)


皇帝

曹奐(字景明・魏常道鄉公)

皇后

卞氏

皇太子



三公(魏)

晉王:司馬昭(相國)→(死去)→司馬炎

相國:司馬昭(晉王)→(死去)→司馬炎
太傅:司馬孚(前太尉)
太保:鄭沖(前司徒)


太尉:王祥(前司空)
司徒:何曾(前征北將軍)→司馬望(前驃騎將軍)
司空:荀顗(前尚書左僕射)


その他の要職(魏)

錄尚書事:司馬昭(大将軍)→(死去)
太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→

大将軍:司馬昭(大都督を加号)→(死去)
驃騎将軍:司馬望(前衛將軍)→石苞(前征東大將軍)
車騎将軍:→陳騫(前征南大將軍)
衛将軍:


地方官

司隸校尉:
冀州牧:
幽州牧:
并州牧:
青州牧:
徐州牧:
兌*州牧:
揚州刺史:?
雍州刺史:諸葛緒
交州牧:孫壹?
梁州:



主な事件

  • 二年春二月甲辰、朐ジン縣が靈龜を捕獲し献上してきた。相國府に納め返した。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 二月庚戌、虎賁の張脩は昔成都にあって馬を馳せて諸營を回り鍾會の反逆を知らせた。身を没するに至る。脩の弟の倚に爵を賜い關內侯と為す。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 夏四月、南深澤縣で甘露が降ったと知らせてきた。
  • 夏四月、吳は使者として紀陟・弘璆を遣わして和を請うてきた《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 五月、詔して曰く「相國晉王は神慮を働かせて光は四海を覆っている。江表を慰撫し武を抑えて仁を高め、威德を示した。文告を加えた所、使者を遣わして貢物を送ってきた。しかしながら王は謙讓の意をおもって皆簿記して送ってきたが、意思に添うことにはならないだろう。孫皓が献上してきた諸所は皆送還し王のもとに返せ。もって古義にならえ。」王は固辭して沙汰止みとなった。また、晉王に命じて十二旒と天子の旌旗を建てること、出警入蹕、乘金根車、六馬、五時副車を備え、旄頭雲罕を置き、樂舞八佾、虡宮に縣ける鐘を設けることを許可する。王妃を進めて王后と為し、世子を太子、王子、王女、王孫、爵を旧例にならうよう命じた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 癸未、大赦。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 秋八月辛卯、相國晉王が薨じた《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》八月辛卯、文帝が崩御し、太子の司馬炎が相國・晉王を継ぐ。令を下して宥罪の刑を和らげた。役務を休め、國內で三日の服喪を行った。《晋書帝紀三武帝》
  • 八月壬辰、晉の太子の司馬炎が襲位し、百揆を総攬した。物品典冊を備え、すべて皆前と同じであった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 是月、襄武縣が大人が現れたと報告してきた。身の丈三丈餘、跡は長さ三尺二寸。白髮で黃色の單衣、黃巾、杖を柱にして、民王を呼んで語って云うには「今に太平が来る」と。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 九月乙未、大赦。。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 九月戊午、司徒の何曾が晉の丞相となる。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》九月戊午、魏の司徒の何曾を丞相、鎮南將軍の王沈を御史大夫、中護軍の賈充を衛將軍、議郎の裴秀を尚書令・光祿大夫と為し、皆開府する《晋書帝紀三武帝》
  • 九月癸亥、驃騎將軍の司馬望を司徒に、征東大將軍の石苞を驃騎將軍に、征南大將軍の陳騫を車騎將軍と為す。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 九月乙亥、晉の文王を葬送する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 閏月庚辰、康居・大宛が名馬を献上してきた。相國府に納め直す。遠方より萬國が懐かしんできたことを顕かにした。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十二月壬戌、天祿は永遠に去り曆數は晉に移った。詔して公卿士は儀礼を整え壇を南郊に設ける。使者を遣わして皇帝に璽綬と冊を奉じ、晉の嗣王に禪位した。漢魏の故事にならった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十二月甲子、使者を遣わして策を奉じ、遂に金墉城に移った。その後鄴に館を設けた。時に年二十。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》


誕生者


死没者




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