255年
正元二年(魏)
皇帝
曹髦(魏高貴郷公)
皇后
→卞氏(父は卞隆)
三公(魏)
太傅:(空位)
太尉:司馬孚
司徒:高柔
司空:鄭沖
司徒:高柔
司空:鄭沖
その他の要職(魏)
錄尚書事:司馬師→司馬昭(大将軍)
太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
大将軍:司馬師→司馬昭(前衛将軍)
驃騎将軍:→王昶(前征南大將軍)
車騎将軍:郭淮→(死去)
衛将軍:司馬昭→胡遵(前征東大將軍)
驃騎将軍:→王昶(前征南大將軍)
車騎将軍:郭淮→(死去)
衛将軍:司馬昭→胡遵(前征東大將軍)
地方官
揚州刺史:文欽→(逃走)
雍州刺史:王経
雍州刺史:王経
主な事件
- 正元二年春正月乙丑、鎮東将軍の毌丘倹、揚州刺史の文欽が叛く。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 正月戊寅、大将軍の司馬師は征伐に赴く。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 正月癸未、車騎將軍の郭淮が薨ず。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 閏月己亥、文欽を楽嘉に破り、文欽は遁走し遂に呉に奔る。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 閏月甲辰、安風津の都尉が毌丘倹を斬り、都に首を送ってきた。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 閏月壬子、また淮南の士民諸為毌丘倹﹑文欽の為にたぶらかされた者を特に赦した。鎮南将軍の諸葛誕を鎮東大將軍と為す。司馬師が許昌で薨ず。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 二月丁巳、衛將軍の司馬昭を大將軍と為し、錄尚書事とす。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 二月甲子、呉の大將孫峻等は兵十萬と号し寿春に至る。諸葛誕は之を打ち破る。呉の左將軍留贊を斬る。捕虜を京都に献上する。。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 三月、皇后に卞氏を立てる。大赦。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 夏四月甲寅、后の父卞隆を列侯に封じる。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 甲戌、征南大將軍の王昶を驃騎將軍と為す。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 秋七月、征東大將軍の胡遵を衛將軍に、鎮東大將軍の諸葛誕を征東大將軍と為す。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 八月辛亥、蜀の大將軍姜維が狄道を攻め、雍州刺史の王経が洮西で戦い、王経は大敗する。戻って狄道城を保つ。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 八月辛未、長水校尉鄧艾を以って行安西將軍と為し、征西將軍の陳泰と力を合わせて姜維を拒む。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 八月戊辰、太尉司馬孚を遣わして後ろに続かせた。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 九月庚子、帝は尚書の学業を終え、聴講し、親しく授けてくれる司空鄭沖﹑侍中鄭小同等に各々格差があって下賜した。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 九月甲辰、姜維は退却した《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 冬十月、詔して「私の德が薄く、寇虐を滅ぼせない。蜀賊が陸路を侵入してきて洮西で戰ったが破れた。多くの將士が死亡し合せて千數を数える。私は深く痛み不憫で悼む。所在の郡の典農及び安撫夷二護軍の各部の大吏に令して門戶を回り慰撫させた。賦役を一年免除した。力戰して死んだ者は皆舊科の如くにし遺漏のないようにさせた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 十一月甲午、隴右四郡及金城は連年敵を受け、ある者は亡くなり、或る者は叛いて賊に投じたりして,その親戚で本土に留まっている者は不安として、皆特に之を赦した。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
- 十一月癸丑、詔して「洮西之戰に従軍し、將吏士民であるいは戦って死んだもの、あるいは洮水に溺れ沈んだ者は今だ骸骨も回収できず、原野に棄てられている。私は日頃から之を悼む。征西、安西將軍に告げる。戦没及び水死者の亡骸を求めて回収し、慰霊せよ《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
誕生者
死没者
郭淮(車騎将軍)
司馬師(大将軍)
司馬師(大将軍)