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演劇の犬

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演劇の犬


 夏の草木に囲まれて中庭のお子様プールがぽつんと浮かぶ。お子さま体型の荵のことなので、色気というものは全く感じられない。
しかし、小学生が初めて身に着けるようなパステルカラーの水着は学内で見ると異様に映る。おまけにイヌの浮き輪を片手に
はしゃいでいる荵の姿はどう転んでも場違いだが、なぜか「荵だから仕方ないか」と見るものはあきらめざる得なかった。

 「今年の夏はなついねえ!」
 と、浮き輪でバタ足を始めたかと思えば
 「うおー!イヌ掻きすんよっ!わたしのイヌ掻きは最速だよっ」
 と、しぶきを上げる。
 荵の身の丈ほどしかないお子様プールでイヌ掻きすると、水しぶきに包まれてプール自身がうごめいているようにも見えた。

 夏にはしゃぐ者いれば、夏に悔やむ者あり。
 校舎の窓から眺める荵の姿は、制服姿の荵と変わらなかったと迫は諦めにも似たため息をつく。それに口を挟むように
荵を羨ましく思うのは後輩の黒咲あかねだった。出来ることなら荵のように太陽のの日差し、宇宙の恵みに感謝したいけど、
そんな気分ではない。あんなことにならなければ、今頃荵と一緒にはしゃいでいたのかもしれない。無論、お子様プールではないけれど。
 ゆっくり流れる夏の雲。ゆっくりなびくあかねの黒髪。一足速く秋が来たかのような顔のあかねを迫は「諦めろ」とたしなめた。
自分の気持ちがこの国の四季のように流れてゆけば、どんなに自分が楽になるんだろうか。季節ってヤツは利口だ。
春、夏、秋、冬と否応がなしに流れてゆくから、時が物事を解決してくれる。けれども、夏になったばかり。
 秋が遠い。

    #

 「迫先輩は誰かを好きになったことがありますかっ」

 答えにくい質問だった。うそは言えないし、本当のことを話すとややこしい。まだ、梅雨の残っている時期だというのに、
雨空を一掃するような答えを返せなかったことに迫は唇をかんだ。雨音が激しい。コンクリの壁から水無月の香りがする。
 迫はとにかく真顔でそんな質問をする黒咲あかねに何とか答えをしてやりたい。でも、それよりあかねがどうしてこういう質問を
してくるのかが迫にとっては重要だった。何故、自分にこんなことを聞きたいと思ったのか、と。
 迫とあかねは演劇部の先輩と後輩の関係というだけだ。迫もそれ以外考えたことは無い。だが、あかねからすれば先輩以上の
想いがあってもおかしくは無いはずだ。迫の答え一つであかねを傷つけるかもしれないと、迫は答えに窮していた。

 「どうして、そんなことを聞く」
 「知りたいんです」
 「何故」
 「必要なんです。わたしに」

 あかねは演劇の道に入ってそれ程長くは無い。みんなで作り上げる演劇を魅力的に感じたあかねは部室の扉を叩いた。
そして初舞台での練習のこと、先輩であった迫はあかねのセリフに耳を止めた。それは台本ではなく、アドリブでのセリフ。
誰もがあかねのセリフまわしに心奪われた。この子を逃がしてはいけない、ぜひ文書を書かせなければ……と。
 それ以来、あかねは迫から台本を書くことの楽しさを教えられてきたのだ。ただ、それだけの関係に過ぎない。


 「たとえば、今まで意識していなかった人が恋しくなったりとか」
 「ないね」
 「じゃあ、恋が芽生えても離れ離れにならなければならなくなったときの辛さとか」
 「そんなことはまだ感じていない」
 正直に答えているだけの迫に罪はない。

 「あれだろ。おれを台本のネタにしようとか」
 「ところで、久遠は?」

 夏の空模様と、女の子の話はくるくると変わりやすい。自分の質問がすかされたことはいつものことだから、迫は単純に「いない」と
みどりの黒髪の少女に答えを返してやった。それにしても演劇部の同級生、久遠荵の姿が見当たらない。いつもなら暇さえあれば
部室の中で「わんわんおー!」と小道具片手にはしゃいでいるはずなのだが、今日に限って犬小屋から姿を消して首輪を外している。
 荵と会わなかったことは考えていた通りだとあかねは胸をなでおろす。だいたい久遠のやることはあかねには分かるらしい。
 お外に出ていたあかねの気持ちは迫に諭されてハウス!脱線した話を修復する。

 「夏休み公演のお話が思い浮かんだんです」
 「あれか。参加するつもりなのか」
 「梅雨前の発表会を見て出たくなったんです」
 演劇部では2、3ケ月おきに部内でご褒美つきの発表会を行っていた。
 部内でいくつかの班に別れ、少人数だけで一つの劇を作り上げること。そして今回は、部内で優秀だった者は街の夏祭りの舞台に
出ることが出来るという。学園公式ではないもの、切磋琢磨が目的の部内発表会だった。少人数だからこそ小回りが効くし
逆に制約がつくことで毎回これで頭を悩ませる部員も多い。いつものような、みんなで作り上げる仲良しごっこではなく、
ライバル同士の作業にあかねは始め戸惑った。それを後押ししたのは荵だった。この子なら頑張れる……と。
 荵もその話を聞くと表情を変えないものの首を縦に振った。普段なら「わんわん!やるよ!」というはずだが、
あかねは親友の目を信じることにした。その日からあかねは表情を露にしないものの、寝る間を惜しんでノートと睨みあっていた。
 迫は本人の希望でこの公演では彼ら、彼女らを見守ることにしていた。そして、あかねは迫に内容を隠さずに打ち明ける。

 「イヌだった娘と少年の話、です」
 迫のメガネが切れかけて点滅している電灯を映しこむ。
 「真っ白なイヌが神様にお願いして人間の娘になるんです。でも、ただのイヌから人間になって、
  人間が当たり前だと感じていたことを彼女は初めて感じるんです。それは、誰かを好きになること。
  イヌでいる間はなんとも感じていなかった。遊んでくれて、いっしょにいてくれる存在だった人間。だけど、自分が人間になって
  それ以上の感情が分かる存在なんだと知ったとき、初めて彼女は恋心を抱きます。ケモノだった自分からの開放」

 ケモノだから?
 イヌだから?
 同じ生きとし、生けるもの同士なのに?

 想い人の姿を目に入れる自分が恥ずかしくなるような錯覚。
 人間にだけ許された「好きになる」感情をケモノは手に入れてはいけない。果たしてそうなのか。迫はメガネを摘む。
 「でも、幸せなときは長く続かない。彼女は神様から再び元のイヌへ戻るようと告げられます。
  それは、ケモノが人を好きになってしまったからという『罪』の咎として。神への反抗として」
 全貌を聞いた迫に、いくつかの疑問が生じた。
 これはあかねと荵の舞台だ。では、少年役は誰がするのか。何故、あかねは荵がいなかったことを幸いとしたのか。
そして、果たしてあかねはいったい何を考えているのか。雨音が強くなるに連れて不安が増す。


 「いいのか、打ち合わせとか」
 「ありません。久遠には台本を渡しません」
 さらりとあかねは言い返したが、正解なのかは分からない。荵の思い描くセリフをいつも見ているあかねは、アドリブで
この舞台を荵という忠犬と共に挑んでみたかったのだった。いつもやっているエチュード、それを思い出せばよい、と。

 「このお話、イヌの娘は人間からの会話で動き始めます。元々、イヌだった娘と全く同じ状態です。なので、台本は一人分で十分」
 「賭けだよな」
 「ほんのさわりと役柄、そして結末だけ久遠に教えてあげるんです。思った通りに久遠が動くよう本を書いていますから」
 風車を見て巨人と思い込む勇者。友に空白の舞台を全て任せた少女。さして変わりは無い。

 「あの子なら……尻尾を振ってやりますよ。『演劇のイヌ』ですから」
 「そのまんまだな」
 演劇に出会って得たもの全てが荵を育み、荵が得たもの全てを演劇に賭ける。
 これからずっと、これからきっと、一緒に歩いていくんだから『イヌ』と呼ばれても構わない。全身で恩返ししてやるんだから。
演じること、よき信頼関係で居たいという意味で、あかねは敢えて荵のことを『イヌ』と呼んだ。
 「黒咲はだんだん誰かに似てきたな。楽しみにしているから」
 「わたしは出ません。この本、迫先輩のために書いてきたんです。多分、ぴったりです」
 「やめとく。おれはそんな賭けなんかしない主義なんだ」
 「賭けていないんですか。演じることに」
 「賭けてるよ。失敗する方へ」

 初めて先輩にあかねは目に光るものを見せた。
 外の天気がそうさせているからと、言い訳できれば良いのに。

   #

 事実、賭けは迫の勝ちだった。あかねは荵を買い被り過ぎていた。
 試しに部室で迫と荵はあかねの台本どおりに進行してみた。しかし、穴があった。荵はそれほど単純な子ではないということと、
荵はあかねが思っていたほど動いてくれなかったということ。本を書くのがいくら好きでも、荵には耐えられなかった。
 そして、あかねはエントリーを取り消した。

 そのことを未だに悔やむあかねは、すっかり夏色に染まる荵に焼いていたのかもしれない。
なぜなら、部室の窓からお子様プールの荵を眺め続けているのだから。秋にも発表会はあるだろと、迫にまで気を遣わせる始末。
 「多分、久遠荵はこの件を本能的に避けたかったんだろう。でも、おまえの願いだから受け入れた」
 「……ですかね」
 迫の返事はしないことで結論付ける。
 あかねだって承知だ。不安になってすがりより、迫に弱音を吐く姿は荵に見せたくはなかった。
中庭から荵の空を突き抜けるような声が通る。
 「久遠はこの間のことを……」
 「忘れてないよ。だってイヌは恩を一生忘れないからって言うだろ。黒咲のことを恩に思っているだろうからな」
 「えっ」
 中庭からの声。夏色の声。
 「いいこと思いついたのだっ!夏は力持ちだぞ!今度はあかねちゃんにわたしが脚本を書いてあげてあげるのだっ」

 思わずあかねは「久遠っ」と反応するや否や、
 荵はお子様水着姿で「わんっ」。

 迫は一言呟く。

 「……な。アイツはイヌだから忘れないって」

 あかねはエントリーを取り消してよかったと初めて思った。


 おしまい。



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