午前二時の黒鉄亜子
空腹に耐え兼ねて、むくりとふとんから跳ね起きる。
二月も下旬、そろそろ暖かくなっても良い頃なのに、ふとんの外は真っ白な空気で薄ら寒い。
すべて兄のせいにしておけば腹の虫は収まるものの、やはり腹は空くものは空く。
二月も下旬、そろそろ暖かくなっても良い頃なのに、ふとんの外は真っ白な空気で薄ら寒い。
すべて兄のせいにしておけば腹の虫は収まるものの、やはり腹は空くものは空く。
午前2時15分、闇が街を覆い尽くし、よい子たちが寝静まる深夜、黒鉄亜子は着る毛布を羽織りひんやりと冷たい廊下を踏み締める。
一番小さなサイズだが、亜子が羽織ると袖が見事に隠れてしまう。裾を引きずりながら慎重に階段を降りる。ひとりきりだと寂しいので、
手にしたスマホを行灯がわりに歩き慣れたキッチンへの道を進む。うっすらと着る毛布の袖から明かりが漏れるだけで、亜子は安心感を
手にしたつもりだ。ぎしっぎしっと軋む音が墨のような夜に相まって不安を煽ることに亜子は思わずぐずる。
そんなときはにっくき兄の顔を思い浮かべよう。高笑いする兄の顎目掛けて遠慮なく拳で突き上げる。
想像の世界とはいえ、亜子は胸の空くような思いでしばし空腹と恐怖を忘れることができるのだ。
手にしたスマホを行灯がわりに歩き慣れたキッチンへの道を進む。うっすらと着る毛布の袖から明かりが漏れるだけで、亜子は安心感を
手にしたつもりだ。ぎしっぎしっと軋む音が墨のような夜に相まって不安を煽ることに亜子は思わずぐずる。
そんなときはにっくき兄の顔を思い浮かべよう。高笑いする兄の顎目掛けて遠慮なく拳で突き上げる。
想像の世界とはいえ、亜子は胸の空くような思いでしばし空腹と恐怖を忘れることができるのだ。
忘れもしない、午後8時49分。冷蔵庫の中のプリンが兄の手によって消滅した。
たった一個残されたプリンが兄の胃の腑に収められ、亜子の楽しみが叩き潰された。
9時以降は甘いものを控えよう。女子中学生らしい悩みに、亜子は悩みに悩んで明日に取っておくつもりだった。
それが兄の胃袋に消えた。
たった一個残されたプリンが兄の胃の腑に収められ、亜子の楽しみが叩き潰された。
9時以降は甘いものを控えよう。女子中学生らしい悩みに、亜子は悩みに悩んで明日に取っておくつもりだった。
それが兄の胃袋に消えた。
「己の身は己で守るんだな、亜子。犠牲なくして成長はないぞ」
戦国武将の高笑いで亜子を愚弄する兄・黒鉄懐は空になったプリンのカップをごみ箱に投げた。
たったそれだけの行為さえも亜子には屈辱的に映った。
たどり着くはキッチン。誘惑多き食材の魔窟。スナック菓子に柿ピー、はてはラスク。空腹で理性の制御が不能の亜子がお腹を抑える。
この間、学校近くの喫茶店で買ったラスクだ。お店で作っている出来立てほやほやのラスクがひとりっきりで相手を待っている。
喫茶店のウエイトレスがぼそりと勧めてきたからつい財布の紐が緩んだ。ウエイトレス……と言うより、大正浪漫の給仕を思わせる袴に
編み上げブーツ、そしてふりふりなエプロンを身につけた娘が「美味しいですよ」とやる気なさそうに呟いた。
ネコみたいな目で、ネコみたいにマイペース。亜子は給仕に自分の姿を重ねていた。何となく、自分に似ていると。
妙に沸き立つ親近感を抑えるのはナンセンス。
たったそれだけの行為さえも亜子には屈辱的に映った。
たどり着くはキッチン。誘惑多き食材の魔窟。スナック菓子に柿ピー、はてはラスク。空腹で理性の制御が不能の亜子がお腹を抑える。
この間、学校近くの喫茶店で買ったラスクだ。お店で作っている出来立てほやほやのラスクがひとりっきりで相手を待っている。
喫茶店のウエイトレスがぼそりと勧めてきたからつい財布の紐が緩んだ。ウエイトレス……と言うより、大正浪漫の給仕を思わせる袴に
編み上げブーツ、そしてふりふりなエプロンを身につけた娘が「美味しいですよ」とやる気なさそうに呟いた。
ネコみたいな目で、ネコみたいにマイペース。亜子は給仕に自分の姿を重ねていた。何となく、自分に似ていると。
妙に沸き立つ親近感を抑えるのはナンセンス。
「下さい」
そのまま誰にも食べられることなく残ってくれている事実に感謝。あのバカ兄からでもさえ。
ただ、今はじっと堪えなければ体重計の神から罰を受けるのだ。
ただ、今はじっと堪えなければ体重計の神から罰を受けるのだ。
「……」
ラスクを包むビニルの音が耳を裂く。
「はっ」
黒鉄亜子は女子中学生だ。
花も恥じらう乙女だ。
ここで誘惑に負けるなら、体重計がきっと兄のように高笑いするだろう。
魔女の微笑みでりんごの誘い。亜子は短剣の代わりにスマホを目の前に突き出した。
時間は午前2時18分。この数字を呪文にして、魔女のりんごを払いのけようと亜子は瞬きを繰り返した。
とにかくお腹が空く。その事実が亜子を苦しめる。空腹さえ紛らわせれば……、亜子は冷蔵庫から牛乳を取り出した。
何も口にしないよりかはましだという亜子なりの打算だ。
すきっ腹の牛乳は胃を活発にさせた。口一杯に広がる白濁の宴、そして喉を潤す優しい甘味。右手にコップ、左手にスマホ。
親指でぐりぐりと画面を操作して、ひとりっきりの回廊の不安を拭う。
花も恥じらう乙女だ。
ここで誘惑に負けるなら、体重計がきっと兄のように高笑いするだろう。
魔女の微笑みでりんごの誘い。亜子は短剣の代わりにスマホを目の前に突き出した。
時間は午前2時18分。この数字を呪文にして、魔女のりんごを払いのけようと亜子は瞬きを繰り返した。
とにかくお腹が空く。その事実が亜子を苦しめる。空腹さえ紛らわせれば……、亜子は冷蔵庫から牛乳を取り出した。
何も口にしないよりかはましだという亜子なりの打算だ。
すきっ腹の牛乳は胃を活発にさせた。口一杯に広がる白濁の宴、そして喉を潤す優しい甘味。右手にコップ、左手にスマホ。
親指でぐりぐりと画面を操作して、ひとりっきりの回廊の不安を拭う。
「……かわいい」
こんなときにはネコ動画だ。
くったんくったんと戯れる子ネコたち、イヌとネコの種族差を越えた友情。亜子は子ネコの気持ちで牛乳を口にしていた。
美味しい。
牛乳が美味しい。
もしかして深夜にこっそりと飲むからかもしれない。
一人酒を嗜む恋に敗れたOLの気持ちが今は分かる。
くったんくったんと戯れる子ネコたち、イヌとネコの種族差を越えた友情。亜子は子ネコの気持ちで牛乳を口にしていた。
美味しい。
牛乳が美味しい。
もしかして深夜にこっそりと飲むからかもしれない。
一人酒を嗜む恋に敗れたOLの気持ちが今は分かる。
生まれ変わったらネコになりたい。いつも甘えて好きなときに寝て食べて。
スマホの画面に閉じ込められた子ネコたちが、今、とてつもなく羨ましい。ウチの愚兄と引き換えにいかがですか、ネコの神様。
夢中になって牛乳をまた一口、桜色の唇が白く濡れるという罰を甘んじることなく受け入れて、口寂しくなった舌を癒す為に
ラスクを一つ口にし……。
スマホの画面に閉じ込められた子ネコたちが、今、とてつもなく羨ましい。ウチの愚兄と引き換えにいかがですか、ネコの神様。
夢中になって牛乳をまた一口、桜色の唇が白く濡れるという罰を甘んじることなく受け入れて、口寂しくなった舌を癒す為に
ラスクを一つ口にし……。
「あーっ!」
にゃー!
誓いはたやすく破れた。
夜の誘惑に騙されて、決して食べまいと、兄を打つ拳に誓ったのに。
亜子の口元をざらざらと砂糖とパンくずが汚し、暗闇の底に乙女の願いがかけらとなって飛散していた。
夜の誘惑に騙されて、決して食べまいと、兄を打つ拳に誓ったのに。
亜子の口元をざらざらと砂糖とパンくずが汚し、暗闇の底に乙女の願いがかけらとなって飛散していた。
午前2時22分。
外からは一斉にネコたちの声が「にゃー」と年に一度の夜を祝福していた。
外からは一斉にネコたちの声が「にゃー」と年に一度の夜を祝福していた。
おしまい。
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